言葉を再定義したい。

「言葉の再定義」の練習帳。

「国語力がある」って一体どういう意味??

 

「国語力がある」とは何なのか?という疑問がふと思い浮かびました。

 

 

僕はずっと国語が嫌いでした。それが今では文章を書くのが好きまでになりました。

 

 

悔しいのが「国語に対する苦手意識がなかったら、もっと早く文章が書くことに出会っていたのに!」ということ。

 

 

そこで今回は「国語力がある」ということについて考えてみました。

 

 

「国語力がある」って一体どういう意味??

 

「国語力がある」とはつまり、国語の成績が良かったことではないでしょうか。

 

 

そのまんまですね。でも、それ以外にきちんと個人の国語力を測る機会なんてなくないですか。

 

 

「国語という総合力」が得意か不得意か

 

「国語」というと、学校での授業が思い出されます。個人的には、嫌な思い出です。

 

 

国語の授業では色々なことをやった記憶があります。

 

  • 漢字の練習。
  • 皆の前で朗読。
  • 読解力を磨く。
  • 古文・漢文。
  • 自分の意見を書く。

 

このように、国語というだけでたくさんの要素から成り立っていることが分かります。

 

 

自分の場合は、漢字が好き&得意だった。ただ、それだけでした。なので、国語に対するイメージは最悪。ついでに成績も最悪でした。

 

 

  • 文章から作者の気持ちを想像するなんて意味が分からなかったし、
  • 古文・漢文も学ぶ意味すら分からなったし、
  • 声を出して朗読することなんて最悪でした。

 

 

こんな自分は国語の成績が良くなかった。すると僕はこう思いました。「僕には、読解力もないし、作文の能力もないし、漢文古文も才能がない。」

 

 

こうして自分は長い間、文章というものから遠ざかっていた。それがひょんなことから文章を書くようになりました。そうしてまた思いました。「あれ?文章を書くのって楽しいじゃん!今までの時間は何だったんだよ!!」

 

 

国語という教科に苦手意識を持っていたため、自分の楽しい気持ちに気が付くことができませんでした。

 

 

ただ、僕とは反対に漢字が苦手でも、作者の気持ちが文中に明記されている、それを探し出すのが得意。そういう人なんかは、自分には国語力があると思うことができたのでしょう。

 

 

つまり、国語力というのは、国語という色々な要素を備えた教科における総合力。それを測って、他人と数字でももって比べ(ようとし)ていること。

 

 

おわりに

 

「国語力」という言葉には複合的な意味を持ちすぎている。それを簡単に人と比べることはできない。逆に言うと、それくらい奥が深いものだということでしょう。

 

 

また、思い込みって大事ですね。良い意味でも悪い意味でも。自分の中で「何が苦手意識の原因か?」ということを考えることは、自分自身の可能性を閉じてしまわないためにも重要なのだと強く思いました。

 

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。