言葉の再定義が救い

この世を生きやすくなりたい。

「清潔」と「清潔感」って何が違う??

 

モテるためにはどうすればいい?

最低限「清潔感が必要だ」とよく聞く。

 

 

そして「ああ、じゃあ風呂に入って洗濯すればいいのか!」と解釈する。

ただ、その通りにしてもモテないから「なんやねん!!」ってなる。

 

 

そうして初めて気づくんですよね。

「清潔感」と「清潔」は違うということに。

 

 

じゃあ何が違うの?

 

 

「清潔」をググると、

よごれが無くきれいなこと。

 

 

「清潔感」をググると、

汚れのない、清潔な感じ。 または人格が正しく誠実であるさまを意味する表現。

 

 

もう答えが出てる感じがする。

 

 

無理やり比較して大雑把に解釈するに、

  • 「清潔」とは「嗅覚的な清潔さ」。
  • 「清潔感」とは「その他の視覚的・内面的なところから感じる清潔さ」。

 

 

清潔さを感じるのは匂いだけでなく、視覚からもあり得ると。

それほど見た目は人にとって重要だということなんでしょう。

そして、内面の清潔さも外面に表れるものらしい。

 

 

つまり、モテるためには、

  • 清潔であることは大前提。
  • 視覚的にも「清潔そう」と思ってもらう必要がある。
  • そして、視覚的にも清潔そうだと思ってもらうためには内面を磨く必要がある。

 

 

ここから分かるのは、

異性に求める条件として「清潔感のある人」と言う人は意地悪だね。

 

 

このたった一言で、

①かんたんに勘違いさせるorミスリードを誘うし、

②実は複合的な要素を求める条件だということが分かる。

 

 

モテるってハードル高い。

 

 

 

 

 

「つまらない」と思うのは、自分がつまらない存在だから??

 

何をしててもつまらない。

そんなときがある。

 

 

でも、そんなときにこんな言葉に出会った。

「人間はどんな小さなことからでも、楽しみを見出せる唯一の動物」

 

 

なるほど。

そうかもしれない。

 

 

何もしていなくても。

雲が流れるのを見ていても。

他の人がつまらないと思うものにでも。

楽しみを見出すことができる。

それがつまり「趣味」なのかも。

 

 

つまり、「つまらない」というのは、

 

  • 自分がつまらない人間か。
  • 面白さを見出せるほどに達していないか。
  • 面白い面とつまらない面の、つまらない方を見ているか。

 

なのかも。

 

 

 

 

 

 

「価値観」とは「優先順位」かも??


「価値観って何やねん」って思う。

難しいし抽象的すぎてイメージが湧かない。

 

 

ということで「価値観」の砕けた言い方は何かって考えてみた。

そうしたら「優先順位」って言葉が思い浮かんだ。

 

 

「価値観」=「優先順位」

 

「自分は何を大事にしているのか?」

そんなことをいきなり訊かれても答えるのには躊躇する。

 

 

そういうときは、とりあえず優先順位をつけていくっていうのはどうか。

価値観と言われてるっぽい単語を書き出す。

そして優先順位をつける。

 

  • 健康
  • 家族
  • 仲間
  • 時間
  • 貢献
  • 自然
  • 趣味

 

そうすると自分が何を優先しているのかを自覚することができる。

自分が何を大切にしているか。

そして逆に何を大事にしていないか。

 

 

価値観に正解はない。

大事なのは、自分の価値観を自覚することかもしれない。

 

 

 

 

 

「価値観」とは「あくまで迷ったときの指標」

 

「価値観が確定した瞬間に人生が動き出す。」

 

 

果たしてそれは正解なのか。

それほど価値観を探すのは大事なのか。

 

 

たぶん逆だと思う。

何か道を進んでいて壁にぶつかったときに参照するのが価値観。

 

 

あくまで迷ったときの指標でしかない。

価値観がコレだからと言って、その価値観によって自分の行動すべてが縛られるべきではない。

 

 

価値観という自分を納得させるためのロジック。

そういう基準を1つ持っておくのは、迷ったときには便利。

 

 

ただ、それ以上に人生を決定させるものではない。

人は分かりやすいものに惹かれやすいのかもしれない。

だから、分かりやすい価値観に勝手に共感する。

 

 

ただ、そんな抽象的な価値観みたいなもので人生すべてが決定されるものではない。

というか、そんな人生は個性もないつまらないものだとしか思えない。

 

 

 

 

「言葉」とは「表面上のやりとり」

 

最近「言語化」っていう言葉が流行ってる。

 

 

他人の経験を言葉にして伝える。

それ自体は便利なこと。

 

 

ただ、あくまで言葉は表面上のやりとりでしかない。

 

 

そもそも価値観が違えば、同じ言葉でも人によって意味合いが違う。

人の価値観によって、違った意味合いで消化されてしまう。

 

 

だから、他人の言葉なんてアテにしない方がいい。

理解を深めたいなら、言葉を自分なりに「深掘り」「再定義」してみるくらい。

 

 

 

 

 

「他人の感想文」から見えてくるもの!

 

SNS時代。

他人の「感想」を目にする機会が増えました。

 

 

その作品に対して「どのような意見があるのか」どうかが分かるのと同時に、

「その感想文を書いている人の性格」も同時に伝ってくる(伝わってきてしまう)。

 

 

  • ポジティブなのか。
  • ネガティブなのか。
  • 感想ではなく人格否定になっている。
  • 小さなことでも自分にプラスなものを発見している。

 

 

「感想文」とは「自分の心を晒している行為」。

どのような言葉を使うかで、思った以上に自分の内面が相手に晒されているものなんだ、と感じますね。

 

 

 

「才能」とは「他人が認める自分の能力」

 

「才能」をググるとこういう意味が出てくる。

 

物事を巧みに行う、生まれつきの能力。

 

うん、まあそうなんだけど。

もう少しちゃんと定義した方がいい。

 

 

もし自分の才能を見つけたいのなら、せめて言葉の意味を自分なりに理解しておいた方がいい。

ということで「才能」という言葉を再定義してみた。

 

 

「才能」とは「他人が認める自分の能力」。

 

 

才能は他人あってのもの。

自分に才能があるかどうかは他人が決めるもの。

だから、自分には才能がないと決めること自体間違っている。

 

 

また、自分にはどんな才能があるかを知りたい場合。

自分だけを見つめていては、自分の才能に気づくことはできない。

他人の思想や行動と比べることで、自分が優れているか劣っているかを知ることができる。

それか他人から言ってもらえるとありがたい。

 

 

だから、そもそも他人に興味がないといつまで経っても自分の才能に気づくことはできない。

また、他人との接点がない人とかも、自分の才能に気づく機会がない。

まあ、自分のことなんですけどね。

ああ、無情。