言葉を再定義したい。

「言葉の再定義」の練習帳。

「成功」の反対は「失敗」ではない

 

「成功」の対義語は「失敗」かもしれない。

ただ、「成功」と「失敗」は表裏一体とも言える。

 

 

どちらも行動をした結果。

「失敗」は、「成功」の中に含まれている一部だとも言える。

失敗は成功の元。

 

 

だから「成功」の反対は「行動しないこと」。

というのはもうよく言われていることだけど。

 

 

そこから分かるのはもし成功したかったら、

失敗してもいいからとりあえずやってみること。

 

 

このブログも何の成果も得られないかもしれないけど、とりあえず続けていきたい。

 

 

 

 

「体の力を抜く」ってどうすればいいの??

 

「体の力を抜く」

「肩の力を抜く」

 

 

それって具体的にどういうことだよ?

体の力を全部抜いたらフニャフニャになって床に落ちるしかないじゃん!

 

 

それは間違っていることはなんとなく分かる。

だから解釈を変えるしかない。

 

 

「体の力を抜く」ってどういうことか?

それって、少し言葉足らずなのではないか?

例えば、「余計に入っている体の力を抜く」とか。

 

 

人間の自然体は、

①背骨がまっすぐ天に向かって伸びている状態。

②呼吸を止めることなくできている状態。

 

 

つまり、肩だったりに力が入っているのは自然な姿勢じゃない。

また、余計なところに力が入っていると呼吸の妨げになっている可能性もある。

 

 

だからやるべきは、

①背骨がまっすぐになっていることを意識しながら、

②息を大きく吐いて、息を大きく吸う、それを繰り返すこと。

 

 

それが「体の力を抜く」「肩の力を抜く」ということの意味かも。

 

 

 

 

「教育」とは「洗脳」だって言うけど、、

 

「教育」って一言でいうと何なのさ。

それに「洗脳だ!」って言われているのを見かける。

 

 

たしかに。

そういう一面もあるかも。

 

 

洗脳とは、言ってみたら詰め込み。

  • 知識の詰め込み。
  • 決まったやり方の詰め込み。

それらが「教育は洗脳」という意味なのかも。

 

 

でも、それだったら「呪術廻戦(じゅじゅつかいせん)」で言っていた「教育」の定義の方がしっくりくる。

 

「教育」とは「気づきを与えること」。

 

 

詰め込みではなく、気づきを与えること。

そっちの方がしっくりくる。

そして、それは教育がいかに難しいことかを思い知らされる。

 

 

 

 

 

「アウトプット」は「○○を映し出す鏡」

 

自分が何かしらのアウトプットをする。

時間を置いてそのアウトプットを見てみると、その時点の自分自身の状態を知ることができる。

 

 

  • 雑になっている。
  • 純粋さがない。
  • 別のことを考えている。
  • 読む人のことをきちんと考えられてアウトプットされている。

 

 

アウトプットを見ると、そういうものが嫌でも伝わってくる。

アウトプットをしている時点では無意識だったとしても。

 

 

そう考えると「アウトプット」は「内側を映し出す鏡」。

自分の心を視覚的に見せてくれる鏡。

 

 

日本人はどこに重きを置いて生きている??

 

外国人や日本人で成功している人たち。

それらの人たちと一般的な日本人って何が違うのか?

 

 

それは、どの時点に重きを置いているかなんじゃないか。

 

 

外国人や日本の成功者たちは「現在」を。

日本人は「未来」に重点を置いている説。

 

 

前者は、今という時間に全力投球して。

後者は、漠然とした未来に不安を抱えながら生きている。

 

 

もしそれだったら、そりゃ差が出ますよね。

 

 

 

 

成功者と凡人の「行動力」の解釈が違いすぎた。

 

ライターの勉強のために本を読んでいました。

千田琢哉さんの「心を動かす 無敵の文章術」。

 

 

その中に興味深い言葉がありました。

 

文章力磨きは、1ジャンルにつき1000回書いて1セットと考える

 

半端ない。

 

 

僕もたまに「いい感じの記事が書けたー!」と浮かれますが、そこまで。1000記事もの量をこなすなんて夢のまた夢。

 

 

自分なりに行動力をつけようとしていますが、それにしたって成功者との行動力との差に愕然とさせられます。

 

 

1000回か。

 

 

  • 毎日投稿したとして、3年ちょっと。
  • 毎日2本書いたとしてら、1年半。
  • 毎日3本書いたら、1年くらい。

 

これだったら最短で行けそうだし、これくらいは目指してみたいけど、それにしてもツライ。

 

 

改めて、成功者と凡人の「行動力」という言葉への解釈の違い、スケールの違いを見せつけられました。

 

 

 

 

 

「国語力がある」って一体どういう意味??

 

「国語力がある」とは何なのか?という疑問がふと思い浮かびました。

 

 

僕はずっと国語が嫌いでした。それが今では文章を書くのが好きまでになりました。

 

 

悔しいのが「国語に対する苦手意識がなかったら、もっと早く文章が書くことに出会っていたのに!」ということ。

 

 

そこで今回は「国語力がある」ということについて考えてみました。

 

 

「国語力がある」って一体どういう意味??

 

「国語力がある」とはつまり、国語の成績が良かったことではないでしょうか。

 

 

そのまんまですね。でも、それ以外にきちんと個人の国語力を測る機会なんてなくないですか。

 

 

「国語という総合力」が得意か不得意か

 

「国語」というと、学校での授業が思い出されます。個人的には、嫌な思い出です。

 

 

国語の授業では色々なことをやった記憶があります。

 

  • 漢字の練習。
  • 皆の前で朗読。
  • 読解力を磨く。
  • 古文・漢文。
  • 自分の意見を書く。

 

このように、国語というだけでたくさんの要素から成り立っていることが分かります。

 

 

自分の場合は、漢字が好き&得意だった。ただ、それだけでした。なので、国語に対するイメージは最悪。ついでに成績も最悪でした。

 

 

  • 文章から作者の気持ちを想像するなんて意味が分からなかったし、
  • 古文・漢文も学ぶ意味すら分からなったし、
  • 声を出して朗読することなんて最悪でした。

 

 

こんな自分は国語の成績が良くなかった。すると僕はこう思いました。「僕には、読解力もないし、作文の能力もないし、漢文古文も才能がない。」

 

 

こうして自分は長い間、文章というものから遠ざかっていた。それがひょんなことから文章を書くようになりました。そうしてまた思いました。「あれ?文章を書くのって楽しいじゃん!今までの時間は何だったんだよ!!」

 

 

国語という教科に苦手意識を持っていたため、自分の楽しい気持ちに気が付くことができませんでした。

 

 

ただ、僕とは反対に漢字が苦手でも、作者の気持ちが文中に明記されている、それを探し出すのが得意。そういう人なんかは、自分には国語力があると思うことができたのでしょう。

 

 

つまり、国語力というのは、国語という色々な要素を備えた教科における総合力。それを測って、他人と数字でももって比べ(ようとし)ていること。

 

 

おわりに

 

「国語力」という言葉には複合的な意味を持ちすぎている。それを簡単に人と比べることはできない。逆に言うと、それくらい奥が深いものだということでしょう。

 

 

また、思い込みって大事ですね。良い意味でも悪い意味でも。自分の中で「何が苦手意識の原因か?」ということを考えることは、自分自身の可能性を閉じてしまわないためにも重要なのだと強く思いました。

 

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。